また明日

 

「今でも女の幸せは結婚にある。なんて本気で言うつもりですか?」
テレビの中では何とかという頭の良さそうな女性コメンテーターが机を叩いて言う。

「本気も今時も何も女の幸せは結婚にあるに決まってるじゃないか。」
まあ男もそうであるべきだが。と隣に座っている涼子さんは不満そうにテレビに呟きつつシャリシャリとリンゴをきれいに剥いている。
いつもリンゴくらいは自分で剥くと言ってはいるのだけれど涼子さんは決してそれを許してはくれない。

「でも今時は違うみたいだよ。女性の社会進出も進んできたし。」
ベッドに横になりながら口を挟んでみる。
今は涼子さんが帰るまでの少しの休み時間。
リハビリは主に涼子さんのおかげで苛烈を極めているから毎日のこの穏やかな時間は楽しみだった。
視線をテレビからリンゴを剥いている涼子さんの方に向ける。
季節に合わせた薄手のブラウスとロングスカートという清楚な格好は涼子さんに良く似合っていると思った。
ブラウスから覗く色白の肌が少し眩しい。

「それとこれとは全然違う。仕事をしながら家庭を持って幸せになればいい。
結婚して幸せだと思う事が一番良いに決まってるじゃないか。」
同時に不満そうにぶんぶんと包丁を振り回す。

「うわ、包丁あぶな」
斬れる斬れる。リンゴの皮も飛ぶし。

「大体がだ。通い婚だの夫婦別姓だの男を台所に立たせろだなんて言うのは」
うちの父のように一人身なのであれば兎も角。と涼子さんは不満そうに言った。

「でも涼子さん、そういうのって男を甘やかせ」
「む。ほら、匠君。あーん。」
涼子さんの手がこちらに伸びて、言葉を遮る。

「ほら、匠君。あーんだ。」
口を開けろと要求してくる涼子さんに向かってカパリと開くとフォークごとリンゴを突っ込んで来る。
ムグムグと咀嚼すると次の一口サイズに切られたリンゴが突きつけられる。
又カパリと口を開くとフォークをねじ込んでくる。
今度のは小さ目のウサギ。そう言って涼子さんは楽しそうにリンゴを弄くりまわす。

ウサギのリンゴの次はお茶だ。湯飲みを口の中に突っ込まれる。
涼子さんはそうしながら自分用に入れた紅茶をくぴくぴと飲みだした。
いつの間にか手元にはポッキーが準備されていた。

「匠君。さっきの話だけれどな。人には適材適所というものがある。」
涼子さんの口元でポッキーがパキリと音をたてる。
「う、うん。」
さっきの話?なんだろうか。頷くと涼子さんはふう、と息をついて話し始めた。

「有名なギタリストがソロアルバムを出しても大抵碌な事にならないようにだ。
人はその場所にいられるようにその人が出来る努力を払わないといけない。」
私は、私が匠君の側にいられるように努力するとか、そういう事だな、と涼子さんは言う。

「でも、それじゃあ俺がやってもらってばっかりになるじゃないか。」
不満を表明する。ていうか涼子さんにそんな努力をされたら何にも適わなくなってしまう。
それじゃああんまりだし、
なによりもやってもらってばかりというのも情けない。
俺だって頼りがいのあるGuyなんだぜ涼子さん。

「そんな事は知ったことではない。」
ぴしゃりと言われる。今日の涼子さんは強気だ。

「ええ!うーんと。じゃあ、涼子さんは何をして欲しいのさ。」

「それは匠君が考えなくてはいけない。」
冷たく突き放しつつ、涼子さんはまあでも、そうだな。と続けた。

「早起きをする人がいいな。あまり寝てばかりいない人が良い。」
あと優しくて、それとそれと一生懸命リハビリをやる人が良い。と涼子さんはそう言って。
にこりと笑って匠君が頑張ってくれると嬉しい、なんて言ってまたリンゴを剥き始めた。

 

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「じゃあ匠君、お休み。」
お菓子を食べ終わると涼子さんはまた明日。と小さく手を振って部屋を出て行った。

「ふう。」
と涼子さんが出て行ったドアに向って溜息を吐く。
我侭は言えないのだけれど、毎日この時ばかりは少し寂しい思いに駆られる。
こんな事を言ったら涼子さんに怒られてしまうのだろうけれど。
毎日来て貰っておいてなんだとも言われそうだ。

厳しいリハビリだけれど、涼子さんがいたから耐えられている。
もしいなかったらと思うと寒気がする。
自分がこんなに弱いだなんて思ってもいなかったのだけれど。

そんな事をぼうと考えながら漫画でも読んで寝ようかと枕元の本棚に向けて手を差し出す。
と、指先が偶然、2段目に置いてある文庫本に当った。
一段目は俺が入れた漫画が詰まっている。
2段目には涼子さんが持ち込んだだけあって難しそうな本やら可愛らしい本やらが数十冊詰まっている。
一段目に向けて手を伸ばしたつもりだったのだけれど偶然2段目にてが当ったらしい。
普段あまり見向きもしない2段目を覗く。中でも薄い一冊を手にとる。
題名には「老人と海」と書いてあった。

本を広げ、パラパラと捲ると滑らかな手触りが指に触れる。
栞代わりに挟んであったそれの上には、「匠君へ」と書いてあった。
それは可愛らしい封筒で、明らかに今日昨日に挟まれた物ではなかった。

それだけを取り出して本は膝の上に置いた。
動かない手に一苦労しながら中から便箋を取り出すと、
それは涼子さんらしい飾り気も何も無い短めの手紙だった。

最後にはウサギのシールなんかが張ってあって涼子さんにしては可愛らしい。
いつの間に挟んだのだろうか。昨日?それともそれより前だろうか。それとも。
そんな事を考えながら10分位かけて読む。

2回読んで暫く考えた末、そのまま封筒に入れた。

周りを見回して、横に置いてあった水差を手元に引き寄せる。
大分動くようになってきたものの、まだ震える手をゆっくりと抑えて膝の上の「老人と海」を固定する。
最後にラジカセに最近お気に入りのビートルズのラバー・ソウルを放り込んだ。
1曲目のドライヴ・マイ・カーも良いけれど、特にお気に入りは11曲目のイン・マイ・ライフ。
ラジカセから軽快な音が跳ねると同時にまずは一ページ目を捲った。
涼子さんが言う通り、確かに俺は小説は苦手なのだけれど。

今は午後7時。俺の読むペースを考えると今日は夜なべになるかもしれない。
でも頑張って明日は涼子さんにこの本の感想を言ってやろうと思う。

涼子さんは驚いてくれるだろうか。
それともこれから本の話も出来るようになるって喜んでくれるだろうか。
それとも「匠君はもっと本を読まなくちゃ駄目だ」なんてすまし顔で言うだろうか。
手紙を読んだと知れたら涼子さんはとても恥ずかしがるだろうことは間違いないのだけれど。

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匠君へ。--------

もしこれを匠君以外の人が開いたなら、そのまま元に戻すか、それも駄目なら捨てて欲しい。
でも、もし開いたのが匠君なら読んでくれても良い。

匠君が元気になってくれてとても嬉しい。
まだ匠君は眠ったままだけれど、きっと目を覚ます。
だからきっとその時に私はとっても喜んだと思う。
どうだったんだろうか。

今匠君は私の横で寝ていて、私は色々なことを考えている。
とても静かだけれど、退屈でとてもつまらない。
匠君の部屋ならゲームをしたり、一緒にお菓子を食べたり本を読んだり出来るのに。
君とお話が出来ない事がこんなにつまらないとは思わなかった。
びっくりしている。
せめて声が聞けるのなら良いのに。

一緒に学校に通えてとても嬉しかった。
それに楽しかった。
高校生の時から、それは変わらない。
だから私は匠君とこれからも色々とお話をしたい。
休みの日にでもまたディズニーランドに行けたら凄く楽しいと思う。もし晴れたらでいいのだけれど。
もし天気が悪かったら一緒に炬燵にもぐって漫画でも読みながら音楽を聞けたらとても楽しいと思う。
すぐにじゃなくても良いから。

匠君はずっと寝てばかりいるから知らないだろうけれど私は随分と匠君の事を待ってる。
たとえ君が明日起きるのだとしたって酷い話だと思う。
だから起きた時に君は、私に謝るべきだと私は思う。

私はあの時にこれからも匠君と一緒にいたいと言ったのに。
匠君も俺もって応えてくれたのに。
あの神社の前でのことを私はまだ一言一句覚えているんだから。

それなのにいつまでも寝てばかりでは君は私に嘘をついたことになる。
世間では浮気されたって仕方が無いと言うに違いない。。
だから早く。早く起きて。
そうしたら私はとっても喜んであげるから。

本当に匠君がこれを読むことなんてあるのかな。
匠君が横にいるのにこうやって自分の事を書くのは変な感じがするね。
なんだか今日は少し寂しい気持ちがしているからだと思う。

早く寂しくなくなるといいな。
だからどうか。

どうか早く匠君が元気になりますように。

どうか君の目に映る私が前のままでありますように。
どうか匠君ともう一度お話ができますように。
もう一度ゲームをしたり、一緒にお菓子を食べたりできますように。

私はここでちゃんと待ってるから。
匠君が早く追いついてきてくれますように。

そうなりますように。

じゃあ、また明日。
おやすみなさい。

涼子

ps.
昔から気になっていたのだけれど匠君はあまり本を読まないみたいだ。
ちゃんと本を読んでいれば受験の時もあんなに現代文で苦労する事も無かったと思う。
この手紙を挟んだ本はとても私のお気に入りだから是非最後まで読んで欲しい。
ロックと一緒で小説でも古典と呼ばれるものにはとても素晴らしい本が多い。
いつか本の話が出来たらいいなと思う。匠君と一緒に。

うん。少し弱気になっていたみたい。

どうか君のだらしない性格が直りますように。
どうか君が元気になっても他の女の子に目移りしたりしませんように。
どうか匠君がまた一緒にディズニーランドに連れてってくれますように。

こっちのお願いの方が、多分私らしい。
何度も言うようだけれど、私は匠君が思っているより遊ぶのが好きだ。
早く連れて行く事を要求したい。

もう一度、おやすみ。また明日。