外伝(Yukiさん作)

 

「あの、どのぐらい茹でればいいでしょうか」
「…別に、適当でいいわ」

妙なことになってしまった。
鍋の底から泡が出て、もうすぐ沸騰しそう。隣のコンロには煮物の鍋。匠くんのお母さんはさっきからずっと、コトコト音を立て始めた煮物の鍋の蓋を見詰めたまま。深夜の台所で、会話らしい会話もない。

「涼子さん…」
「…」
「涼子さん」
「はいっ」
「お湯沸いているわよ」
「すみませんっ」

バラバラと適当にそばを湯の中に入れていく。

匠くんのお母さんは、色白で小柄で、若い頃はさぞかし美人だったんだろうと思う。でも、正直、少し苦手だ。無口で無愛想。少しも笑わない。話しかけても、会話がつながらない。私の母は明るくてよく笑っていて、とてもよくしゃべる人だったから、なおさら。どうしていいのか、正直、分からない。お父さんとは違って、正直、匠くんとも似ていない。いやいや、そんなことを考えてはいけない。匠くんのお母さんだ、苦手とか、考えるのはよくない。台所に2人。いい機会だ、なんとかしなければ。

「そば、茹でました」
「…そう」

匠くんのお母さんは、独り言みたいに言って、水で薄めるめんつゆを冷蔵庫から取り出した。うーん、話しかけるきっかけが、ない。黙りこくったまま。茹で上がったそばを大きなざるに盛り、台所のテーブルの真ん中に置いた。

結婚式も間近。匠くんの家で食事でも。ということになって、お父さんとお邪魔したのだが。匠くんとお父さん、そして、私のお父さんは飲みすぎであえなくダウン。すーすーと居間に転がって寝息を立てている。

「いただきます」
「…いただきます」

という訳で、夜食用に持ってきたおそばを匠くんのお母さんと2人きりで食べることになった。実際、こうして今、食べている。適当にしてはまぁ、茹で加減は悪くない、と思う。

ずるずる、ずるずる。

匠くんがずっと眠っていたとき、匠くんのお母さんは何度かお見舞いにきた。そのとき、会ったきり。ちゃんと話す機会はこれが初めて。なのだが、今も、ほとんど会話ないけど。そういえば匠くんのお見舞いのときも、無口だった。黙ってベッドの脇に座って。その表情はまるで、怒っているみたいで。だから、あいさつぐらいしか声を掛けられなかった。怒ったような顔でじっと座って、持参した煮物を自分で食べて、そして帰っていった。それだけ。それだけだった。

ずるずる、ずるずる。

「…涼子さん」

なにか、話すきっかけを。話すきっかけ。私は匠くんのお母さんのこと知りたいし、何より、私のこと、知ってほしいと思う。えっと、えっと。だから、なんと言って話しかけよう。普段なら、割と誰でも声を掛けられるんだけど。うーむ、やはり、妙に意識してしまう。これもやはり、嫁姑の関係だからだろうか。もしや、匠くんのおお母さんは私のことが気に入らないと思っているのでは。まままま、まさか。そのうちこう、食器棚の上とか人差し指で撫でられて、口元でふぅっ、とされて。「あら、涼子さん、こんなところにホコリがあるわよ。なんて嫁かしら、おーほっほっ」とか、言われるのだろうか。羅刹の家!? あぁ、どうしようっ。…いや、匠くんのお母さんに限って、そんなことあるはずがない。と思う。ないだろう。と思いたい。

ずるずる、ずるずる、ずるずるっ、ずるるっ。

「涼子さんっ」

うわっ! テーブルの向こう側で、匠くんのお母さんが箸を休めて、私の方をじっと、真っ直ぐに見ていた。

「はっ、はいぃぃぃ、すみません、ぼうっとしてしまって」

そして、匠くんのお母さんの次の言葉に、もっとびっくりさせられた。

「匠の、小さい頃のアルバム見る?」
「はいっ、みみみ見たいですっ」

声が裏返ってしまった。お母さんから、話し掛けてくれた。結構、嬉しかった。

子供の頃の匠くんは、可愛いというより、思ったより、やんちゃな感じだった。なかなか、その、小さな匠くんというのも、アレではないか。アルバムを捲るたび、ジャングルジムのてっぺんで自慢げな匠くん、転んで泥だらけで泣きべその匠くん、お父さんに肩車されて嬉しそうな匠くん、ピカピカの1年生、ランドセルを背負った匠くん。私の知らない匠くんがたくさんいた。…匠くんの子供、男の子だったらこんな感じに育つのだろうか。って何を考えいるんだ、私は。

あれ…!? あれ、あれ!? 捲っても、捲っても、あれれ!? そして、アルバムの途中からは真っ白だった。

「匠くん、どうして?」

あるときから、写真の中の匠くんが、笑っていない。

「どうして…?」

写真の中の匠くんは、怒っているような、苛立っているような、とにかく不機嫌そうで、どの写真もカメラから顔を背けている。どこか寂しそうで、悲しそうで。小学校高学年ぐらいを境に1枚も笑顔がない。最後の家族写真は真新しい中学の制服を着ていて、でも、やっぱり仏頂面だった。

「お父さんとは、駆け落ち同然だったのよ」
「…はぁ!?」
お母さんは、静かに口を開いた。とつとつと語り始めた。
「貧乏だったけど、毎日、楽しかったわ。匠も生まれて、家族3人で、ささやかだったけれど、とても楽しかった…」
「じゃ、どうして匠くん?」

コトコトコト。深夜の台所に、煮物を煮込む音だけが響いている。

「あの子が小学校5年になったばかりの頃に、お父さんの勤めていた会社、倒産しちゃったのね。それで、別の働き口が見つかるまで私がパートに出たんだけど、ほら、女の人が家族を養うお金を稼ぐのって、なかなか、ね。それで家のことはお父さんにまかせて、私は毎日夜遅くまで駅前のスナックにお勤めして」

アルバムの中の、若い頃のお母さんは、それはそれはキレイだった。さぞかし、そのスナックは繁盛したことだろう。

「それで、あるときにね、見られちゃったのよ、匠に。お客さんと同伴してお店に入るところ。私もイヤだったけどお仕事だし、お父さんは仕方ないよって言ってくれていたんだけど、あの子は難しい年頃だったから…。きっと、お父さんは一生懸命お家のことしてるのに、私はほかの男の人と一緒に何してるんだって、思ったのね。それから、写真を撮るときはいつも、こんな顔。ほとんど口もきいてくれなくなっちゃった」

そう言って、お母さんはイスから立ち上がり、微妙に火加減を調整している。

「でも、匠くんならちゃんと話せば分かってくれると思います」
そうだ、匠くんは優しい。お母さんを無視したりとか、そういうことしたりする人ではない。そんなことするはずがない。
「何度かちゃんと話そうと思ったんだけど、部屋にいるときはいつも、大きな音で外国の音楽を聞いていて、そのうちに、そのままね…。頑張って勉強して、大学も合格して1人暮らしをして…」

コトトッ、コトトッ。コトトッ、コトトッ。鍋の蓋が踊りだして。

「出来たみたい」

カチャリ。コンロの火を消したお母さんの背中は小さく丸まっていて。写真の中の匠くんと同じようで、とても寂しそうで。

「匠くんは間違っている。そのときは仕方なくても、それからずっとお話しないなんて、よくない」
「もういいのよ」
「よくない、よくないです。ちょっと匠くんを起こしてきますっ」
「いいの…。それより涼子さん、ちょっと味見をしてもらえるかしら」
「どうしてですか、やっぱりよくないです。匠くん、話せばきっと分かってくれます」

「どうぞ、食べてみて」

お母さんはまるで取り合わず、私の前に小鉢を置いた。

「どうぞ」

里芋と椎茸と人参と蓮根と鶏肉と。ほうわほうわり、湯気が立ち上っている。

「せっかくだから冷めないうちに」

里芋を一つ。ハフハフハフッ。すごい…。

「おいしい、です」

感嘆。すっごく柔らかくて、でも、全然っ煮崩れてなくて。中まで味が染み込んでいて。こんなの、到底、私には作れない。

「そう、良かった…。今でも、匠はこの煮物だけは食べてくれるの。たから、それで十分…。って、本当は私、これぐらいしか作れないんだけどね。実家にいた頃は、お料理は全部、お手伝いさんがやってくれたから」

お手伝いさん、って。やっぱり、お嬢さまだったんだ。いや、そこはかとなく、そんな雰囲気はありましたが。

「あの子、私と似て意地っ張りだから…」

お見舞いのときに煮物を持ってきたのは、そういうことだったんだ…。かなわない。お母さんの匠くんを思う気持ちに、悔しいけれど、今の私ではかなわないと思った。こんなに愛情の込められた料理、私には作れないもの。でも、きっといつか、私も作りたい。作れるようになりたい。

「匠、不器用な子でしょう」
「はぁ、まぁ」

手先が、というより、例えば人付き合いとか。確かに器用にこなす方ではない。でもそれは、決して匠くんの欠点ではないと思っている。

「でもね、あの子に器用な生き方をしてほしくて、匠と名づけたわけではないの。例えば、職人さんが一生懸命、心を込めて作り上げること、作り上げたもの。例えば、長い年月で形作られた美しい峡谷とか、雄大な自然の風景。匠の技だったり、自然の匠だったり。そういうお金では買えないものの価値を大切にして欲しい。そう願って、匠って名付けたの」

この人は間違いなく、匠くんのお母さんだ。似てないなんてこと、ない。そっくりじゃない。不器用な優しさ。匠くん、お母さんそっくり。2人ともそっくりだもの。

「ねぇ、涼子さん」

お母さんは両手で、ぎゅっと私の手を握り締めて。

「匠のこと、よろしくお願いします」

握った手に額を擦り付けるように深々と頭を下げて。

「どうか添い遂げてやってください」
「あっあっあっ頭を上げてくださいっ」

握った手にもっと力を込めて。

「あなたのような人に想われて、匠は幸せね。病室で初めて涼子さんのことを見て、あぁ、もう、この子に私は必要ないんだって、本当に私の元から離れていったんだって、よく分かったわ。私は匠に何もしてあげられなかったけど、これからはあなたが…。もう私には何もしてあげられないから、これから涼子さんが、匠に」
「そんなことない、そんなことない。何もできなかったとか、そんなこと全然ないですっ」

「ありがとうね、涼子さん。匠のことを想ってくれて、本当にありがとう、ありがとう」

「お母さんっ!!!」

匠くんのお母さんは顔を上げて、すごく驚いた表情をしていて。

「お母さんは、一番一番、かけがえのないことをしてくれました。してくれたじゃないですかっ」

つないだ皺皺の小さな手から伝わる温もりは、とても柔らかくて優しくて。まるで春のそよ風に包み込まれていくみたいで。すごく心地よくて。

「私の大切な人を生んでくれました。お母さん、匠くんを生んでくれて、ありがとうございます」

匠くんのお母さんは、すごく嬉しそうに微笑んでいた。

「涼子さん、私のこと、お母さんって、呼んでくるのね」
「…あ」

そういえば、今まで、一度も。

「お母さん、あの…」
「なぁに、涼子さん」
「煮物の作り方、教えてもらえませんか」
「いいわよ。そのために、家に招待したんだもの」

 

「うあー、気持ち悪い。飲みすぎたー」

トイレトイレ。と、向かう途中。台所から明かりが漏れているのに気付いた。
何をしているんだろう。

「涼子さん!?」

コンロの前で、お母さんと涼子さんが2人して、鍋を覗き込んでなにやら難しい顔をしている。

「何してるの」
「匠くん」
えっ、えっ、えっ。振り向いた涼子さんは迷わず、僕の両肩をがしっと鷲掴み。とっとっとっ。そのまま台所の外へ押し出そうとする。
「匠くんは、そっちの部屋にいるとよい」
「ちょっちょっちょっと、涼子さん、どうしたの」
「いいからいいから、匠くんは向こうに行っているとよい」
「そうよ、お母さんと涼子さんは大事なお話をしているんだから」
「そういうことだ。立ち入るでないぞ」

締め出されてしまった。
まっ、いっか。

終わり