第16話

 

なんだかうるさいなあ。と思って。

懐かしい。かな?それでもないな。
何だっけこれ?よく聴いたな。
思い出せないけど。えーと、あれだよあれ。

最初に戻った感情はそんなものだったと思う。

30年間眠りについていた男がある日突然に目覚める。
そして自分の知らないうちに流れてしまった時間に愕然とする。
良くある映画の話だけれどあれは嘘だと思う。嘘ってのは言いすぎか。
でも、少なくとも俺の場合は違っていたと思う。。

勿論覚醒していた訳じゃないのだけれど、なんだかこう、少し浅い眠りについている時のような感触を常に感じていた。
部屋に人がいるだとか誰かが話している気がするだとか。
触覚じゃない、もわもわとした何か気配のような。
かといって何か考えていた訳でもない。
本当にぼんやりと。今だから思い出す。
そういうレベルでの意識はあったんだなと思う。

だから最初に意識が開けたとき、なんとなく自分は随分長い間ここにいたんだろう、なんて思った。
体は動かないし、眼球が動くだけ。声どころか覚醒している実感も持てない。
それでも何かの音は聞こえて、自分がどこかにいる感触だけはあった。

最初のうちは途切れ途切れの意識の中で眼球だけを動かしていた。
音もうーん。なんとなく、少しだけ。やっぱり寝ているのかもしれない。
でもだんだんとやっぱり意識だけは戻っていると感じる時間が多くなってきた。

自分が寝ている状態である事もなんとなく判った。
まあ多分病院にいて、要は点滴で生きてるって事なのだろう。
ごはん食べたいな。食欲とか良く判らないし、体動かないけど。

だけど何故だか恐怖感はあんまり感じなかった。
しょっちゅう耳元で何か音がしていたし。
人の気配がしていたから。
そう、なんだっけこれ。思い出せないけど。えーと、あれだよあれ。
ヒーリングミュージックかな。癒しって奴だ。
最近は病院でもこういう事に取り組むってニュースでやってたし。

でも、それにしては騒がしい気もする。
何度か話し掛けられている気もするし、それは看護婦さんなのかもしれない。
いきなり立ち上がって復活!とかやったら驚くかな。
心臓止まるかもしれないな。ま、体動かないんだけど。

眠っているような、どこかが覚醒しているような。
そんな何かを考えているのか、眠っているのか判らない状態がどのくらいか続いた後。
何かのきっかけがあったのかは判らないけれど。

突然、横で鳴っている音楽がクリアに聞こえた。
目の前の煙が晴れるように意識だけが完全に覚醒していくのが判る。

それまでとは全く違う天地がわからないようなぐらぐらと回転するような気持ち悪さが体を包む。
そして、確かにに体が動かない事がわかった。
心臓だけがドクドクと動いているのが判るだけで、
覚醒した意識に対して、体自身は動かし方を忘れたように全く動かない。
現に動かし方は判らなかった。

全身が動かない事を確認した後、呼吸だけはしている事を確認して、そして恐らく伝える手段はこれくらいだろうと考えた。
上半身も下半身も麻酔がかかったように動かない。
それでも必死で息だけを吐き続けると、喉が鳴るような音だけは出た。
必死になって何度も繰り返す。

そんな苦労をしている中、隣で椅子がガタッという音をさせて動いた。
部屋に誰かがいたと言う事だけで安堵感を感じる。
それでも開かない目の隙間からうっすらと見える天井だけでは状況は全く判らない。
「んんーーー」
伸び上がったような声が聞こえた。

「さて、お菓子お菓子。」
「ぅぁ゛ー」
おお、出た出た声。なんだか判らないけど俺にも食べさせてください。お菓子。
口動かないけど。

「ふう。」
少し溜息。足元のあたりを歩いているのが判る。

「ぅぁ゛ー」
だから俺も食いますって。
がさがさと頭のすぐ横で動いているのが判る。

「ぅぁ゛ー」「ぅぁ゛ー」「ぅぁ゛ー」
必死で肺から息を搾り出す。声出てますよー

「ぅぁ゛ー」
「っ・・?」
「ぅぁ゛ー」
「ふう。・・・ふふっ」
溜息と自嘲するような笑い声が聞こえた。

必死に息を吐き出しても口からは自分の耳にもかすかとしか言い様の無い音しか漏れない。
「ぅぁ゛ー」
もうちょっとしないと駄目かなあと諦めかけたその時、隣のがさがさと言う音が止まった。

「・・」
暫くの沈黙の後、カチャカチャと何かを横にどけたような音。
そして横で鳴っていた音がピタリと止められた。

「ぅぁ゛ー」
「・・・・・」

開かない瞼の隙間から確認する。
恐る恐る覗き込んできた顔は、なんだか髪が随分伸びてお洒落な眼鏡なんかをかけていた。
しまった。やっぱり随分やっちまってたのかもしれない。
でも30年は経ってないみたいだ。
伸びた髪も眼鏡もセクシーだぜ涼子さん。

いや、これ涼子さんの娘とかだったりしたらどうしようか。
ママ、パパが目を覚ましたよ!とか言ったりして。
そしたらなんて言おうか。
涙ぐんで僕が君のパパだよ。かな。
君は本当にママに似ているね。なんつって。
彼氏がいるとか言われたらどうしようか。
マジで許せないんだけど。でも良い奴だったらしょうがないか。
でもまだ早いんじゃないかな。最近は30位で結婚するのが普通って言うし。
あー、そもそも名前はなんだろう。可愛い名前だといいな。
パパって呼んでくれるかな。父さんでも良いな。

まあ残念ながらそんな心配は全くない訳ですけれども。

 

それより最悪なのはパパ、匠おじさんが目を覚ましたよ。だよなあ。
パパって誰だよ。

はじめまして、あなたの担当をしている山本と申します。
いやぁ、本当に良かった。すぐに涼子もここに来ますから。
はは、こんな時に何してるんだろうな。あいつ。
ほら、ご挨拶して。これ、娘の美穂です。
こんにちは、匠おじさん。ママからよく話、聞いてたのよ。
いやいやいやいやいや、匠さん。すぐに体も動くようになりますよ。
私達も家族ぐるみで応援させて頂きます。社会復帰もすーぐですよ。すぐ。
今は高齢者への支援システムも整っておりますし。ハッハッハ。

・・・・
だとしたら夢の世界に戻ろう。戻ってきちゃ駄目だったんだ。
ごめん、俺。空気読めないから。

でも、その声は線の細い声だったけれど。
「・・匠君・・・、もしかして起きてる?」
間違いなく涼子さんだった。よく見てみれば背筋も伸びてるし。間違いない。

安堵感と共に息を吐き出してみる。
「ぅぁ゛ー」
顔は動かなくって、喉しかならない。おきてますよー。

「・・・おはよう。」
呆然とした表情で見下ろしながら言われる。
見上げて思う。少し胸、大きくなりましたか涼子さん。
半目になってるからそう見えるのかもしれない。

「ぅぁ゛ぁ゛ー」
おはよー。動かない唇で続ける。
手を握られる。
必死の思いで握り返す。それでもピクリとしか動かなかった。

「・・・おはようじゃない・・・おはようじゃないっ!」

今更だからもう少しこのままお喋りをしていたかったのだけれど。
髪の毛が伸びて眼鏡をかけている、懐かしくって見慣れない顔は。
「・・ちょ、ちょっと待ってて。ケーキ。じゃなくて。」

目を丸くしたまんますっと視界から消えて。
ええと、と言いながらぱたぱたと何処かへ走っていってしまった。
すっとした背筋と一緒に最後に見えたのはやっぱりぴょこぴょこと動く結んだ髪の毛で。

俺としてはその髪型似合っているよ、とかもうちょっと気の利いた事を伝えたかったのだけれど。