第11話

 

「こんにちは。」
ナースステーション越しに顔が見えたので声をかける。

「あら、こんにちは。今日は早いのね。」
忙しそうに立ち働いていた婦長のおばさんは私を認めると手を止めてにこにこしながらやってきた。

「うん。授業が休講だったから早く来ちゃった。これ皆で分けて。」
「そう、あら、チョコレート?」

「うん。皆さんで分けてください。」
「あら、いいのに。でも,ありがとう。」
周りにいる看護婦さんも手元を覗いてからありがとう、と声をかけてくれる。

「ううん。皆に作ってきたからお裾分けです。」

そんな軽い挨拶を交わして奥の休憩室へと歩く。

今日のこの時間なら、休憩室には昔自転車屋をやっていたという髭のおじいちゃんと
スナックのママをやっているという紫色の頭をした五月さんがいる筈だった。

「こんにちは。」
ドアを開けてさっきと全く同じ挨拶をするといつも通りの明るい顔がいっせいにこちらを向いた。
病院や公共機関独特の機能的な細長い机と灰皿の位置、座っている人達の位置までいつもと同じだったりする。
「あら、涼子ちゃん。」

「こんにちは。やっぱり。」
あまりに想像通りで思わず笑ってしまう。
「どうしたの?」

「この時間ならおじいちゃんと五月さんがいると思ったから。座ってる位置まで同じなんだもの。」

「毎日毎日同じ顔しかいねえんだもんなぁ。ほら、涼子ちゃんこっちすわんな。」
お爺さんはまいっちゃうよ。と言う風にいうが、口調は軽い。

「ううん。匠君の所に行きますから。これ、皆さんで食べてください。」
それに煙草の匂いは苦手だし、煙草の匂いを付けたまま匠君に会いたくはないし。
鞄の中から袋を取り出して灰皿の置いてあるテーブルの上に置く。

「あら、何これ。」
五月さんが早速手を延ばしてくる。

「チョコレート。バレンタインデーだから。お裾分け。」

「あら、嬉しい。私も頂いていいのかしら。」
「もちろん。皆で食べて。細野のおばあちゃんにも会ったら言っておくけど、食べさせてあげてね。」
「下園の親父は糖尿だからあげれねえな。」

「あはは。下園さんにはあげちゃ駄目。じゃ、匠君に挨拶してきます。」

「帰りは私のところに寄るんだよ。果物が余っちまってしょうがないから持ってって頂戴。」
五月さんはぷかーっと煙草の煙を吐き出しながらにっこりと笑ってそう言う。

そう毎日毎日色々な物を貰ってしまうと食べきれないのだけれど。
顔を見せると病室の皆が色々と相手をしてくれるから何も無くても顔を出す事にしていた。
それでも顔を見ると五月さんはそう言って私を誘ってくれる。

「うん。帰りに寄ります。」
そう言って休憩室の扉を閉めた。
一年も通っていれば長期入院者の人達とは顔見知りにもなる。皆、意外と明るくて気さくな人ばかりだった。

煙草の匂いが充満している休憩室を出て、薬の饐えた匂いが鼻をつく廊下を一人で歩く。
ナースステーションや賑やかな休憩室では感じないのだけれど、やはりここは病院なのだと思う。

 

一年と少し経って、結局匠君は目を覚まさない。
自発呼吸はしているものの目を醒ましたら奇跡。
一生植物人間のままの可能性も高い。そう言われている。

けれども私は、何故かこの状態に奇妙な安息感を感じていた。

学校へ行って、帰りに病院に行く。
ほぼ一日も欠かさず一年以上続けている。
今では学校よりも、一人暮らしの家よりもここが一番自分にとってしっくりと来る場所になってしまっていた。

ノックして返事が無い事を確かめて、部屋に入って匠君の顔色を見る。
「おはよう。匠君。」
不思議なもので日によって顔色が違ったり、何か雰囲気が違ったりする。
目を閉じている事に変わりは無いのだけれど。

匠君の横に椅子を出してきてラジカセを小さい音でかけてからいつものように座った。
看護婦さんが来るのが5時だから、それまでは多分誰も来ない。
買ってきたペットボトルを隣において。
匠君の横にある戸棚から半年ほど前に始めたパッチワークの道具を取り出して昨日の続きを始めた。

一日中匠君の顔ばかり眺めていると匠君が照れてしまうよなんて言って、
婦長さんが半年ほど前に私に教えてくれたのがパッチワークだった。

小さい切れを縫い合わせたりする、いわゆる裁縫仕事なんだけれど以外にもはまってしまった。
始める前は年寄り臭いかななどと思ったのだけれど、中々奥が深い。
手先を動かすから飽きないし、横で音楽を聞きながらなら尚更だ。
ふと病院にいる事を忘れて熱中してしまって、横を見ると匠君が寝ていたりしてびっくりする事もある。

そんな事をしていたらふっと思い出した。
さっきまでずっとその事を考えていたのに、おかしくなってしまう。
部屋に入ってからあんまりにもいつも通りに動いたから頭から飛んでしまったのかもしれない。

「そうだ、今日はチョコレートを持ってきたんだ。去年は付き合い始めたばかりだと言うのに、それどころじゃなかったからな。」
編物を用意する手を止めて袋からチョコレートの包を取り出す。
ついでに少し伸びてきた髪も後ろで束ねた。

「一緒に食べようと思ったから二人分だ。私も食べる。」
そう言って。匠君の髪の毛を少し触って、それから半分を枕元に置く。

私が事故で得た傷は左腕の裂傷だけだった。
匠君に守ってもらったからかもしれないけれど、自分としてはもう少し重い傷でもよかったと思う。

「食べたかったら起き上がって取ると良い。私は自分で食べる。」
チョコレートを口に放り込む。

薄情に思われるかもしれないけど、一度も泣いてはいない。

「ん。意外と美味しいな。匠君も食べると良い。」
枕元のチョコレートはやっぱり減らないのだけれど。

奇妙な安息感に包まれながら。
そんな風にゆったりと流れる日常の中で、私は毎日病院にきている。
まるで毎日庭の植物に水でも撒くように。

多分この安息感は、病院という場所を私が居心地のいい所だと思っているからなんだろう。
私は母の寝ている横でこうして良く絵本や児童書を読んでいるような大人しい子供だったから、
その頃に戻ったように感じているのかもしれない。

だからあまり不安にも思わない。

それに私の頭は抱えてもらった匠君の手の感触をまだ覚えているから。

おはよう。匠君。
今のところ匠君は、何度言っても起き上がってはくれないのだけれど。