第10話

 

たしかにそうだ。容易に想像できるのに、想定していなかった俺が悪い。

「あれかな。鈴木君は。お酒とかはよく飲むの?」
ハンドルを握りながら後部座席にいる俺に話しかけてくる。
2回の休憩を挟んで、もうすぐ東京に入る所。
国産高級車の代表といわれるだけあって、乗り心地は非常に快適極まりなかった。

「あ、いえ。まあ。普通です。」

うちの娘と親しくなりたくば高速道路を車を引きずって歩かんかぁ!!と言う事も無く。
ローキック対策には蹴られる足を浮かしダメージを最小限に抑える事が重要だという情報も幸いにも無駄になってくれた。

むしろ涼子さんのお父さんは眼鏡とオールバックの似合う、
どちらかというとお坊さんや弁護士をやっていると言われても納得してしまいそうな、非常に知的な感じのする人だった。

「そうか。私は日本酒が好きでね。今年はうちには来なかったけれども、来年は鈴木君も是非来るといい。」

「は、はい。是非。」

涼子さんは空調が聞いている車内にあわせて黒いラフなニットとジーパンという格好で、
耳にイヤホンが刺さったまま目線は窓から外を眺めている。
先ほどから微妙に震える声で無難な答えを探しつつ答えるという難作業をこなしている俺を尻目に
隣に座ってはいるものの、完全に我関せずといった感じである。

「いや、しかし涼子はあれだろう。男手で育てた上に私がやっているのが、ほら。こう言ったものだから。」
と言って俺の隣を親指で指し示してわかるだろ?という風に涼子さんのお父さんはくいと眉を上げた。

「我侭一杯に育ててしまっているから。」

「いえ、料理も上手ですし。そ、それに色々と俺の方がお世話になってます!」

「・・・ほう、料理というと鈴木君の家で?」
シフトチェンジをしながら涼子さんのお父さんは続ける。
心なしかシフトチェンジの際にクラッチを押す足がもたついたような気がする。

そして俺はなんとなくそこにトラップの香を嗅ぎ取った。

「い、いえ。あー・・は、はい。そうですね。たまーに練習帰りに打合わせをこうした後に時間があった場合
涼子さんにこう、手伝ってもらってって言う事が何回かあったりした時にですね。そうですね。何回か。」

ああ、そうなんだ。と頷いている。
涼子さんは上機嫌で横でヘッドバンキングの最中だ。

「ああ見えて意外と寂しがりやだから心配していたんだよ。」

「あ、そうなんですか?」

「うん。母親を亡くした時なんかはずっと閉じこもっちゃったりね。」

涼子さんからはあまりそういったことは聞いていなかった。
「そうなんですか。」
お母さんが亡くなられていた事だけは知っていたけれど。

「うん。うん。それで色々と寂しい思いをした子だから、寝るときは布団じゃなきゃあ駄目だとか、
人形がないと眠れないとか。普段はしっかりしているんだけど、実の所子供みたいでね。
最初ははこんなので一人暮らしなんかできるのかと思ったんだけどね。」

「あ、そうなんですか。知らなかったな。確かに人形は沢山持ってますよね。涼子さん。
でも今はベッドですけど、それは問題なくなったんですかね。」

ちらりと横を見ると視線に気づいたのか目線を送ってきて、
涼子さんはこちら側の手をヘッドバンキングに合わせるようにして、ぱたぱたとリズミカルに俺の手を叩いた。

ぼう、と涼子さんと手を絡ませていると、
「・・・今はベッドなのか・・・」
知らなかったなぁ。とハンドルを握りなおしながら涼子さんのお父さんは続けた。
心なしかスピードが上がった気がする。

「いや、たまーーーに練習帰りに涼子さんを送っていった時にですね。ちょっとドアの隙間から見えた事があったんで。」

ああ、なるほどね。なるほどね。と頷いている。
涼子さんは曲に合わせて首だけを左右に揺らしていて、
それに合わせて後ろで纏めた髪がリズミカルにぴょこぴょこと揺れている。
恐らくこっちの声は全く聞こえてないと思われる。
今にも歌いだしかねない。

「ベッドねえ。」
涼子さんのお父さんは感慨深そうに寝れるようになったんだ、と繰り返している。

涼子さんの手をなぞって伝えようと試みる。
「タスケテ」
これ以上話していると、なにかとんでもない誤解を与えそうな気がする。
涼子さんのお父さんは恐らく娘である涼子さんの色々な情報をこの会話で得ようとしているに違いなかった。

涼子さんに関してならいくらでも話したいのだけれど、
こう、こういう、なんていうかな。言葉を選ばないといけないようなその。
非常にデリケートな父と娘みたいな関係の中に俺のようなどこの馬の骨と言われても反論の余地がない人間とのこう、
うまーい感じの溶け込むと言うか変な事を言ったら良くないような。

手をなぞると、涼子さんはまったく気がつかないままん?と優しげな顔をして。
こんな所で甘えてくるな、というようにぴん、と俺の手のひらを指ではじいた後、
頭を揺らしながら戯れるようにはじいた部分をゆっくりとさすってきた。

「鈴木君。」

「は、はい。」

涼子さんのお父さんは、暫く考えると、ハンドルを握って視線は前を向いたまま。
「がさつかもしれないけれど、結構心根は優しい娘だと思いますので、仲良くしてやってください。」
と、少し笑いながら言ってきた。

もしかしたら、バックミラーで俺と涼子さんの事を見たのかもしれない。
さり気ない、色んな感情が混ざった声だったと思う。
でもそれは何故だか、よろしく。と何かを頼んでいるような声に聞こえた。

「は、はい。こちらこそ、宜しくお願い致します。」
そう言った俺の声は少し不自然なくらいに勢い込んだ声だったかもしれない。

そこまで来て、やっとこちらの雰囲気に気づいたのか、涼子さんはイヤホンを耳から外した。
イヤホンからはかちゃかちゃとまだ何かが流れている。
多分、ピストルズか、ローリングストーンズかな。何てことを考えた。

「お父さんと匠君はさっきから何を話しているんだ?」

「ん?涼子の話。学校の事とか、そういうことだよ。」
と涼子さんのお父さんはなんでもないことのように話す。

ふーん。と言って涼子さんはバックからペットボトルを取り出すと、くぴりと口に含んだ。

丁度俺と涼子さんのお父さんの会話が途切れた時。
そして涼子さんが顎を上げてペットボトルの中身を流し込んだ丁度その時。
車の横をバイクがスピードを上げて追い抜いて、少し遅れて車が横にぶれた。
涼子さんのお父さんは危ないなあ、と言って逆側にハンドルを回す。

「お父さん、匠君はな。」
おっと。と今の衝撃で上半身のバランスを崩しながら涼子さんは続ける。
いつも俺に何かを自慢する時のようなふふん。といった口調だ。
後ろからか、横からか。ガシっというなんか乾いた大きな音がした。
キイーという金属を引っかいたような音がして。
音の方を見ようと横をみると涼子さんはほつれてたれ落ちてきた横髪を直そうと手を上げたまま、
前を見て涼子さんのお父さんに何かを話そうとしている。
上目遣いで髪を目で追う仕草を見て、とても綺麗だと思った。

でも、何かが変だ。
今までこんな事はなかったし、わからない。でも、

「んー?なんだい?」

何か生暖かいもので背中から頭までをを撫でるような感触がする。
ぐんにゃりと風邪を引いたときのような、
ゆっくりと地面が斜めに傾ぐような。
肩からぐうっと地面に抑えられているような何かが全身を覆う。
耳鳴りとなにか機嫌の悪い機械の悲鳴のような、キイイイイイイという音。

その時、俺は特段何も考えず、左に手を伸ばして涼子さんの頭を抱えて引き寄せた。
先ほどまでぴょこぴょこと揺れていた涼子さんのまとめた髪を鼻先に感じる。
涼子さんの薄いシャンプーの良い匂いと共に、ふと気になった。
その、俺は涼子さんのお父さんに涼子さんの恋人として認識されているのかどうかって言う事を。
それともただの友達、若しくは後輩とか。

涼子さんらしくない高い声でたっ匠君?という声と、横合いから聞こえる金属音。
涼子さんをビックリさせてしまったかもしれない。
確かに大胆な行動だと、我ながら思った。
今まで涼子さんの体に触れた事なんて、そうなかった。
これでなんでもなかったらこれは大問題だ。引っ叩かれるかもしれない。

でも、何も無かったら。何かがあったら。

 

強烈な衝撃と共に、昔テレビで見た宇宙飛行士のように体が浮く。
無音のまま、ぐんにゃりと時間が止まったまま。
涼子さんの頭を抱えたまま、窓の外の景色だけが激しく横に動いて、
短い時間の間で、ドアに叩き付けられる事だけは理解できた。

胸に抱えた物だけは離すまいと思って。

 

視線が激しくぶれたと同時にそのまま頭が強烈に何かにぶつかる。
ぐにゃというなんとも間抜けな軽い音。

 

そして、なんどか揺さぶられたような、声をかけられたような。

でも

すうと、眠りに落ちるように俺の世界は暗転した。